本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

荒涼とした砂漠と庭*オキーフの家


デレク・ジャーマンが穏やかな晩年を過ごした、英・ダンジュネスでの記録「Derek Jarman's Garden」を本棚から引っぱり出した時、「あれ、こっちの本も放置していたよ」と「オキーフの家」(メディアファクトリー刊、03年)が目に入ってきました。

この2冊には、写真家が現地に長期間通って撮った、大量の撮影成果の中から写真を厳選して、1冊のビジュアル本を編んだという共通点があるですね。庭と家(ジャーマンの方はコテージなので小屋かも)の様子を介して、アーティストの頭の中、脳の活動の様が想像できたりします。

オキーフの家が建つニューメキシコ州アビキューに通った写真家は、マイロン・ウッド。カバーの宣伝文(?)によると、長らく写真集の依頼をことごとく断っていたオキーフが、92歳(1979年くらい)の時にウッドの申し出を受け入れ、撮影は2年半に及んだとあります。

前のブログで紹介したことのある「ジョージア・オキーフ—崇高なるアメリカ精神の肖像」(ローリー・ライル 著+道下匡子訳、Parco出版局、84年)の訳者、道下匡子が93歳のオキーフに会いにいったのが1980年。

オキーフは70年代から視力が弱まりつつあったため、絵を描けなくなっていたはず。「ぜひ会いたい」と熱望する若い人を、家に迎えるようになったのは、社交に回せる時間的なゆとりができたからじゃないでしょうか。

文章を書いているクリスティン・テイラー・バッテンは、晩年の彼女の身の回りの世話をした看護人で、絵も描いた人物。オキーフとシンクロしたものの見方ができるようになった、と同じカバーの宣伝文で紹介されてます。

アビキューの自然やオキーフの住まい、暮らしについて、バッテンは興味深い文章を書いているんですが、伝わりやすさとか表現の客観性みたいなことに頓着してない風情の感覚的な表現が延々と続くので、正直いって読みにくいです。彼女の目に映っている世界は、オキーフが見ていた世界に近い、と予備知識を仕込んでから読み始めると、いくらかラクにのみ込めるかもしれん。翻訳の江國香織も、この文章を訳すのには難儀したのではないかと想像されます。

で、ページを繰りながら一番「へっ?」と思ったのが、「オキーフの家」というタイトルからインテリアの写真を期待してたのに、なんと家の外観とその周辺等を撮った写真が少なくないこと。考えてみれば、エクステリアだって家を成す重要な部分だわね。思い込みって、おかしい。ぶほほ。

外(エクステリア)の写真がいろいろ収められているから、オキーフの庭の様子をうかがい知ることができるというわけで。石だらけのデレク・ジャーマンの庭と比べると、オキーフの家の庭は林檎の木の足元にアイリスがあしらわれていたりして、普通っぽい雰囲気。一般的な意味で庭らしいといいますか。といっても世の中の基準から量れば、相当ユニークだと思うけど。

家の敷地から一歩外に出れば砂漠が広がる立地ゆえ、新鮮な野菜を得る必要があったことと、美的な対比効果を考えて、庭は庭らしく作られたのかもしれない。ただ、オキーフとジャーマンの庭の違いは、絵画と映画という制作物が異なることも影響している気がするんだな。


絵はひとりで黙々と描くことができるけど、映画は撮影やら音声やら美術やらに携わる大人数のスタッフがチームを作って制作にあたる。となると、個人の頭の中にある当初のイメージのようなものは、どれほど具体化されるのか。


もちろん多くの人が関わるから、ひとりでは到底作り出すことができないスケールの作品が生まれると思うんだけど、監督の頭の中に最初に生まれたシーズ=種は、そのまんまの形で作品になることは難しいのでは。



ジャーマンの庭が抽象的で独創的なのは、頭の外に出したかったイメージがたくさん蓄積されていたからに思えるんだなあ。オキーフは絵を描きながらその欲求を満たすことができたので、庭は穏当なものになった、という可能性はないかな。

日照、雨、風といった自然現象によって、人が世話をしない庭はあっという間に風化しますわ。もちろん植物の世話を怠れば、植物は繁茂しすぎてジャングルになるか、枯れてしまう。


  • ガーデンは、あらゆる人生とおなじく不確かなものだ。収穫の見込みはあるにしても。夏になれば地面がひび割れ、そうなれば別の可能性をいろいろと警戒しなくてはならない。気候の変化、暑くなったり寒くなったり。果てしなく警戒し、果てしなく観察し、見守り、学ぶことーーそれらは収穫のための代償なのだ。菜園の向こう、村の向こうでは、砂漠もまた砂漠のもくろみを持っている。「オキーフの家」p82

オキーフとジャーマンの庭は、自然と人がどの程度関われば、庭が庭として成立するのかという、関係の妙を見せている気がする。amazonの商品ページを見てたら、この2冊をいっしょに買っている人が多いみたいですよ。両者に共通した世界があるのは確かだと思うんだ。

*芋蔓本*

  • 左は「LIFE」誌のカメラマンだったJohn Loengardが、1966年に撮った写真を元に編んだフォトエッセイ(たぶん)。99年刊。
  • 右側のベージュのカバーがかかった本が「オキーフの家」の原著。95年刊。