本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

柳島家の人々*江國香織『抱擁、あるいはライスには塩を』


ちっとも本について書いてないですね、いったいどんだけ間が空いたんだか。本の山を崩すべく、何本かまとめて書いてみようと思ってるんですが、息切れしないことをまず祈ろう(笑)。

まだBSの「週刊ブックレビュー」が放映されていたころ、評者がどなただっか忘れましたが、「変わった家族のお話ですね」と笑いまじりに話されていたのが記憶に残り、読もうと思っていたのが、江國香織の『抱擁、あるいはライスには塩を』。電車の中吊り広告で文庫化されたことを知り、購入。数ヶ月積んだままにしていましたが、ようやく読めました。

この本はですね、東京・神谷町に広壮な館を構える柳島家の人々の3代、約100年にわたる物語。と書くと、読みにくいかもしれない長大なストーリーが予想されて腰が引けたりしますが、中は23の章に分かれており、それぞれ語り手、年代が異なる構成。時の流れに沿ったクロニクル(年代記)ではなく、時間を自由に切り取り、ランダムに配置した連作小説のような体裁になってます。

物語の冒頭は、1982年秋。館の図書室(普通の家には図書室なんてありませんからね、広い邸宅が自ずと想像されます)から庭を眺めるのが好きな「私」(睦子8歳)の視点で話がはじまる。光や風の変化を敏感に感知するような、繊細で内省的な女の子を主人公とするお話は、江國さんが得意とするところでありましょう。ファンならすんなり入れる導入ですわ。

で、次の章は14年ほどさかのぼった、1968年の晩春。妙に不機嫌そうな女性の一人称で進むお話を読んでいるうちに、この語り手は第一章で登場した睦子の10歳年上の姉(望)の、実の父親の配偶者であることが分かってくる。「ええっ、いっしょに住んでる人は、子どもたち全員のお父さんじゃないの?」と思い、「この男性が父親ってどういうこと。人間関係どうなってるんですか」と考えるころにはお話の世界に捕まってました。読むスピードが一段とアップしたことは、いうまでもないでしょう(笑)。

ハードカバーの本の表紙には、バテンレースと思しきレースの図柄(正確を期するとバテンレース1、ボビンレース2かな)が使われておりますが、このストーリーの中の各人物が、どこからか繰り出す糸は、時とともにレースのような複雑な模様をえがいてゆくいってもいいかもしれん。人と人との関係が、後に別の人同士の関係に影響を与え、それが思いがけない大きさの文様になってゆくというか。これを著者の手練手管といわずして、なにをかいわん、です。

表紙のデザイン、なにげに内容を象徴しているな。一方、写真を撮った文庫版の表紙はお皿がモチーフになっていて、これはタイトルにもなっている一種の呪文(?)として登場する、お皿に盛られた「ライス」に因んだものなのかな。

章ごとに語り手が異なってて、たまに同じエピドードが登場するんだけど語り手が違うから、まったく異なる側面からエピソードに光が当てられる。家族の歴史が詰まった厚いアルバムのページを、いろんな人が繰りながら思い出を話してくれる、みたいな小説だなあ。読み手の興味が持続するように、著者は工夫を凝らしたと思うです。

あと、私は江國作品に出てくるネイルの色とか、着るもの、食べもの、飲みもの、読んでる本なんかの登場人物のキャラクターを窺わせるディテールが好きなんですが、今回はいつも和服を身につけているロシア人の祖母とか、個人教授について漢文を習っている子どもたちとか、江國さんが子供のころ父君経由で見聞きしたかもしれない、文壇の語りぐさになっていそうな元ネタのようなものが透けて見えるくだりに、にやりとさせられました。

ドイツ人の奥さんに和服を着せてた文学者がいたと思うんだけど、だれだったっけ。子どもに漢文の先生をつけて家で学ばせてたのは、森鷗外だわね。森茉莉が「嫌だった…」と書いていたような気がする。ともあれ、この本はいろんな本を読みたくなるので、私的には大当たりです。