本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

頭の中に波の音が*川上弘美『此処彼処(ここかしこ)』

書こうと思っていた本が溜まりに溜まってしまったので、今日もがんばって片付けようと思います。川上弘美の味わいを堪能できるエッセイ集、『此処彼処(ここかしこ)』、05年、日本経済新聞社刊。「場所についての言及を、いつも、避けていた」というあとがきの冒頭を読むまで、地名を含めた固有名詞を使うことに対して、著者がかなりストイックな姿勢をもち続けていたとは知らなんだ。

ただ、そういわれてみると、確かに川上作品には、微妙におかしなことを淡々と続けているようなヘンな人物や生き物?が、どこだか分からない町に住んでいる設定が多い気がする。「繁華街」だの、「日本海のみえる土地」だの、「町はずれ」だの、ひどく曖昧な表現ばかり選んでいた(p207あとがき)、という書き方だから、描かれた世界は現実とどの程度離れているか分かりづらい。このとらえどころのなさが、ひょいと異空間に連れて行かれちゃうような川上作品のひとつの味になっているのかも。

この本は、デビュー以来、固有名詞を避けてきたらしい著者が、あえてリアルな地名に取り組んだ意欲作。初出は日経新聞紙上で、週1ペースで1年間連載されたもの。50ちかくの場所が取り上げられてます。

  • この世界の此処彼処に、自分に属すると決めたこういう場所がある。固定資産税もかからないかわりに、知らぬ間に消えていたり変貌をとげていたりもする。p11「彼処」

あっさり素直に書くならば、「私の場所」とか「気に入っている町」としそうなところを、「自分に属すると決めたこういう場所」と表現するか。ひねくれているというか、はずし方がうまいというか。さすが川上弘美。で、ずんずん読み進めながら、p99の「お茶の水」に至って「ひゃ〜」と口が開きました。

  • 久しぶりに風邪をひいて熱を出した。前回、高熱を出して入院した昔のことを書いたからかもしれない。こういう巡り合わせというものが時々ある。打ち寄せる波頭のように連なりあってゆく出来事。入院のことを書いて波頭が揃ったから、今回は病院のことを書いてみるとしようか。

6月第4週の日曜日に掲載されたと思われるこの文章は、著者が約10年(子ども時代から大人になるまで)もお世話になった、お茶の水にある東京医科歯科大学病院の担当医に、次男の歯列矯正のため訪れた近所の歯科医で再びでくわしたことを描いている。巡り合わせの妙を、波頭が揃うといい換えるセンス。どこから来るのだ、波頭。

言葉を選ぶ時、ふつうはいいたいことをぴたりと表す一語を考えるんじゃないですかね(私はそうする)。ここで使われている「波頭」の場合なら、シンクロニシティとか、コレスポンダンスとか。英語を使いたくないんだったら偶然の一致、共時性万物照応など、いいようはいろいろあるだろうに、なぜに波になるのだ。恐るべし。

平易な言葉を使って分かりやすく書かれているのに、どこかずれている。川上弘美が描く異空間は、こういう言葉選びに支えられているんだなあ。こういうふうに書く人は、ほかにいないでありましょう。

そうそう、ん十年前にこんなことがあったな。種村季弘が編集したちくま文庫の『東京百話』というアンソロジーを地下鉄(有楽町線)の車中で読んでいて、小竹向原の駅に到着した時、ちょうど目が追っていたのが駅と同じ「向原」の文字だった(p63小沢信男「東京散歩三話」の豊島区東池袋五丁目の後半)。

カワカミ式にいうと、波頭が揃った瞬間ですね。びっくりしたわ。どんなに驚いたかは、今もこのことを忘れないでいることに現れている気がします。ざっぱ〜ん、どぶん。今後、頭の中で小竹向原のコタケムカイハラという音と、波の映像が合成されそうで、すこし怖いです(笑)。


  • 『此処彼処』をうろ覚えで検索したら、なぜか『そこここ』というKindle版の小説がひっかかってきた。
  • 1948年に発行された英文学者・斎藤勇(たけし)の著書『ここかしこ』は、文字は違えど同名。wiki によると英文学の基礎をつくった、エライ学者さんのようです。興味のある方は→