本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

紅水晶*蜂飼耳

久しぶりに、ほんとに久しぶりにすごい本を読んだかも、と唸った、蜂飼耳「紅水晶」(講談社)。07年に出た本ですけど、図書館でなんとなく手に取るまで、気にしたことがなかったんです、蜂飼さん。

表題作を含め、20ページから70ページ弱までの、長さにけっこう幅のある短篇5篇が収録されておりまして、最初に収められている「崖のにおい」にいきなりやられてしまった。だってね、1ページ目から、こんなんだわよ。

  • 二十のころだった。歩いていた。若い女が森をひとりで歩きまわるのは、やはり危険でよくないことなのだろうか。それとも、いまにも首を吊りそうな顔をしていたのだろうか。手ぶらというのがいけなかったのかもしれない。持ち歩くべきものなど、何もないのに、手提げを持って森に入るようになったのは、そのときからだった。p7

そいで、次のセンテンスが

  • サエコは山歩きがやめられない。p7

とくるんだな。「えっ?」と思いましたよ。なんとなく私小説調の一人称のお話だと思って読み進めていたところに、いきなり「サエコ」と名前が登場して、足元を掬われたといいましょうかね。たまに自分のことを「サエコわぁ〜」みたいに間延びした口調で語る若い女子がいますけど、この主人公はそんなキャラじゃない。「だれが語っているのだ」という疑問がぐるぐるし、宙づりになった気分ですわ。

頭がぐるぐるした状態のまま読み進めると、この話は基本的に「私」とは表記しないものの、一人称的な視点で語られてるのが分かる。が、時折「サエコ」のように三人称が混じってくるのよ。なるほど。人称の不安定さで、宙づり感というか、浮遊感のある世界に引っぱり込まれたような気分になったんだわ。

この書きぶりにあえて名前を付けるとすれば、離人的な表現かな。己を客観的に眺める目線が、モノローグの中に強く差し込んでくる感じ。もちろん作品が離人症解離性障害)を思わせて病的、といいたいわけじゃなくてね、主人公の非凡な精神状態を言葉で鮮やかに作り上げてみせる、ただならぬ筆力に口が開いたことをいいたいんです。(解離性障害についてはwikiの記事なんかをご覧あれ)

「だれでも分かるように、平易に」という書き手としてのサービス精神を、あっさり無視した姿勢が潔よいです。私は好きだ。他の4篇も似た雰囲気のナラティブで、慣れれば、えも言われぬ味わいに酩酊できます。蜂飼さんは詩も書かれるようなので、詩的な作品といってもいいかもしれない。その意味では、若いときの金井美恵子と通じるものも感じるな。

ちなみに「崖のにおい」は金魚が重要な題材になっており、本を閉じたあと、私は岡本かの子の「金魚撩乱」を読み返しました。併読すると、作品の世界が重層的になる感じなので、お暇な方は岡本太郎ママこと、かの子もどうぞ。あと、表題作はマンディアルグの「ダイヤモンド」(短篇集『燠火』に収録)が連想される。いろいろ読み返したくなるので、この本はあたり、です。