本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

放り込まれた小石*奇蹟の画家


情熱大陸で観て興味をそそられた画家・石井一男。若い人が登場することが多い番組なのに、この日(1/17)は66歳の氏でした。長屋のような作りの神戸の古い棟割り住宅にひとり住み、毎日、判で押したような規則正しい生活をする中でかなりの量の絵を書き続けている様子が伝えられました。

はっとさせられたのが、がらんとした室内の清潔な雰囲気。建物も置かれているものも見るからに古いし、高価そうなものも謂れのありそうなものもなし。リサイクルショップで手に入れたというデコラ張りの洋服タンスは、氏自ら中に仕切りを作って絵の収納用にリメイク。デコラ張りですからね、チープといってもいい作りの普及品です。

この手の家具をうまく使うには、「ありあわせで使っているのではない」ということを伝えるため、インテリア的にはある種の工夫が必要になったりするんです。空間全体を同じ時代のトーン(ミッドセンチュリーとか昭和な感じとか)でまとめつつ、テイストの違うもの(ビンテージのジーンズとかどうだ?)をぽつっと対比させるように配置して、おもしろいバランスを作るとかね。


ところが、石井さんの住まいにはそんな意図なんかさらさらない。古くてチープ、まんまです。なのに、きれいなんだなあ。余分なものが何もない。そして手入れが行き届いている。これは人となりに由来する魅力なのだろう、と思って読んでみたのが後藤正治「奇蹟の画家」講談社です。

筆者の後藤氏は1946年生まれ。大阪のボクシング・ジムに通う若者たちを追った遠いリング岩波現代文庫)で、90年に講談社ノンフィクション賞を受賞。アマゾンのレビューやwikiを読んでみた限りでは、スポーツや医療問題を誠実な筆致でレポートされている方のようです。

畑違いといっては失礼ですが、そんな著者が<美術>をテーマにするとなると「なんでまた…」と思いますわ。そのへんのいきさつは冒頭で述べられていますが、私は<あとがき>の

  • 絵も美術界も縁遠い世界だった。これまで画家と交わったことはなく、美学にはまるで無知であり、美術館は妙に疲れる場所であった p174

を読んで、正直な方だな〜と思ったです。さらに情熱大陸でも放映されていましたが、石井さんがきわめて寡黙な人物ときた。アーティストには煙に巻かん勢いで話し続けるタイプの人がいる一方で、ほとんどしゃべらない超無口な方もいらっしゃいますわな。言葉にしづらいものを抱えているからアートという表現に取り組んでいることは理解できるんだけど、ライターとしてこういう方に会うと非常に困る(笑)。


この本を書こうと思い立った著者の後藤氏が、いかに困惑したかが想像されましたよ。で、後藤さんが選んだのは、絵に魅せられた人々をインタビューし、彼らの言葉を材料に石井を描くという手法。画家・石井一男の遅いデビュー(49歳)を水面に投げ込まれた小石にたとえれば、広がる波紋を追跡することで小石がなんであるかを捉えようとしています。画家の評伝を期待すると肩すかしを食ったような気分になるかもしれませんが、この本はこの本で成功していると思う。

興味深かったのは、石井ファンの多くが阪神・淡路の大震災やシリアスな病気などの、ピンチともいえる人生の転機で絵と出会っていること。弱った気持ちをそっと支えてくれるようなナイーブさが石井さんの絵にあるといってしまったら単純すぎるかもしれないんだけど、そういう人を引きつける、繊細な強さのようなものがあるんでしょう。個人的にはジョルジュ・ルオーの色とマチエールで、原マスミが好んで描くような画題が取り上げられてるかも〜という印象を受けましたよ。