本の畑

えっちらおっちら耕す、本やら何やらの畑。情報は芋蔓のように地下でつながっている。たぶん

いつまた読みたくなるか分からない


2冊あるのが分かってた『ウエハースの椅子』。「読み返すかどうか」を本の選考基準(?)にするなら、字が大きい単行本を残すべきかな。ローガンだし(*´꒳`*)

『ウエハースの椅子』の写真を公園のベンチの上で撮りながら、
そういや江国香織は、2冊ある本がいっぱいあったりして…と思い至り、
ちょびっとくらくらした、とある午後。

本がたくさんある所に行くと、ほっとするんだな。
といっても新刊を扱う本屋さんは照明の光が強い(光度かな。輝度かな)ところがけっこうあって、
ある程度の時間を過ごすと明るさに疲れちゃったりする。
つるつるピカピカした新しい本より、
小傷がついてあまり光らなくなった古本の方が見ていてラク
明るさにムラのある、ちょっといい加減な雰囲気の古本屋さんとか、
レトロになりつつある図書館なんかが、疲れない、なごめる空間ってことになるか。

本の山(壁?)に囲まれた自分の部屋もほっとできる場のひとつではあるんだけどね、
数年前から息苦しい感じもするようになった。
本の量が「閾値」を超えてしまったのか、
おのれの好みが変わったのか、ナゾでありますが。

地味に減量を続けているものの、
江國香織をはじめ、2冊ある本がたんまりある現状を鑑みると、
自室で深く息をつける日はいつ来るんだろう。先は長い。
もそもそ作業をしながら
整理のための「2冊本ルール」を考えてみた。

1・読み返すと思われる本はとっておく
2・おもしろく読んだ本でも読み返さないと思われる場合は処分

1と判断した場合、2冊のうち残すのはモノとして美しい方、もしくは愛着のある方。
(省スペースになるという理由だけで文庫本を優先することはしない)
かわいくないモノを手元に置いておいても、大事にすると思えないからさ。

問題は「今、読み返さない」と判断しても、
いつ「また読みたくなる」か分からないとこにある。
将来、処分した本をふと読みたくなった時は、電子書籍のお世話になりましょうかね。

さて、『ウエハースの椅子』どうするよ。
読み返すような、読み返さないような。いきなりつまずいている(笑)。

まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう


手元に置いておきたいと思って新たに文庫本を買ったのに、単行本の処分を忘れてた川上弘美。単行本の紙、手触りに味があるんだわ…。悩む。

2冊あるぜシリーズを続けたいと思います。
写真の川上弘美はベストセラーになったから、みんな知ってるんじゃないかな。
『神様』を読んで衝撃を受けて以来、川上ファンなので、
センセイの鞄』が出たとき(01年)、いそいそと本屋さんに出かけたような記憶が。

表紙が柔らかい独特の装本と本文の紙質のためか、
手に持つと「あれっ」と思うくらい軽いんだけど、
まあ、大きさは普通サイズ。場所をそれなりに塞ぎます。

手元に置いておく本は文庫本にしようと考え、
文庫が出たときに買い直して、単行本はさくっと処分する予定だったはずなんだ。
なのに、どうしたことか2冊ある状態のまま何年も過ぎた。
おそらく単行本の味に未練(?)があったのだと思われます。

久しぶりに単行本を開いてみて、紙がすごく黄変しているのに驚きましたよ。
厚みのあるこの紙は黄ばみやすいのかな。
や、20年近く経てば、どんな紙でも黄変するか。

単行本の装丁はキャップ、題字とイラストは吉富貴子。
文庫のカバーデザインは吉富貴子。どちらをとっておくべきか。


若いころは、20年ってすごく長いと思ってました。
赤ちゃんが成人するくらいの時間が経つんだもんね、短くはない。
なんだけど、いざ自分が五十路に突入してみると、
あっさり「長い」といえないものも感じる。

20年前のことが「昨日のことのよう」に思えるわけじゃないですよ。
昔持っていた20年という長さの物差しが、
使えなくなった感覚といったらいいかなあ。

「え、もうそんなに昔のことだっけ?」みたいな、過ぎ去った時間の量がピンとこない感じ。
祖母の年齢の離れた妹(よく行き来していたのでおばちゃんと呼んでた)が、
「80年なんてあっという間だよ」といってたことがあり、
「年をとると時間が早くなるっていうもんなあ」なんて若かった私は思ったけど、
10年前のことも20年前のことも(覚えていることに関しては)、
大して違いはないというのが今の実感だったりする。
年齢だけじゃなく、ぼんやりしているキャラの影響もありそうだけどね(笑)。

この感覚が進行すると、
「80年あっという間」の境地に達するのかもしれない。
どうなるんだろうね。恐ろしいような、興味深いような。

+++

センセイの鞄』に戻ると、
この小説で好きなのは、酒のつまみがやたらと美味そうなとこ。


    • 「まぐろ納豆、蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまに私が頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。単行本のp8

発音と順番をちょこっと変えてつまみの名を繰り返すの、とっても音楽的じゃありませんか。
冒頭から小説の世界に捕まりました。
あと、知らなかったけど、漫画化もされてるんだね。気になる。


物忘れと開き直り


「2冊あるぜシリーズ」ができるくらい、2冊ある本が多いかも。インスタでレポートすれば、整理の弾み、もしくは放置防止策のようなものになるかなあ。今日の『中年クライシス』は既読の文庫本があるのに(付箋までついてるよ)、100円の単行本をうっかり買ってしまった ver. なぜ2冊あるのか分からないより、マシだと思いたいです。

2冊ある本の写真を撮り続けたら、副産物として
90センチ幅の本棚1段分くらいは減量できるかもなあ、なんて思う今日ころごろ。
河合隼雄著『中年クライシス』は、文庫本と単行本のセット。
文庫本には付箋が付いているので、わりとしっかり読んだと思われるのに、
うっかり単行本を買ってしまった、だれかさん。

ん十年前までは、ものごとを記憶することにあまり苦労したことはなくて、
まあ、興味のある分野も対象もごく狭いので、
把握できる量ったって大したことはないですが、
編集していたインテリア雑誌のバックナンバーだったら、
「○○さん宅は△△年の夏ごろの号、その2年後に再び伺っているはず」
という感じで10〜15年分は頭に入ってました。
母が愛読してた婦人雑誌も、
編み物のページだったら何がどこにあるかほとんど分かってたな。

それがフツーのレベルだったわけなんですが、
不惑を過ぎてから異変が生じ、とにかく探し物が多くなった。
「あれ〜、あれはどこいった?」
毎日何かを探す始末。
さっきまで手に持ってたものが見当たらないなんて、
ほとんどホラーだよ(お笑い系の)。

脳の機能の衰えといってしまえば簡単だけど、何が起きているんだろうね。
経年変化によってメモリーの目減り現象が発生するのか。
キャッシュがいっぱいになって、メモリーに余裕がなくなるのか。
使わなくなった機能として、一種の廃用性萎縮みたいなことが起こるのか。
昔は手で書いていた原稿を30代からPCを使って書くようになり、
覚えておかなければいけないことの質が変わったのは確かだけど、
いろいろナゾだ。

とにかく管理できるモノの量が減ってしまったことは確かなので、
モノの量を減らし、見える化をする。
幸い本は、並べることで見える化が自動的に完了しますわ。
最盛期(?)には700〜1000冊あった本が、
ここ数年の地味な努力(?)によってたぶん500〜700冊程度までになったはず。

しかしですね、2冊ある本がぼろぼろ出てくるってことは、
これでも多いってことですかのう。
今まで物量に覆われて、頭のネジがたくさん抜けてたことが見えなくなってのかもしれない。
やれやれ。



コンパクトな文庫本と、大きいけど司修が装丁を手がけている単行本。
どちらを残すのか決めようと思って、
『中年クライシス』をパラパラめくっていたら
こんな一節が目についた。


    • 人生五十年などと言われていた頃には、一生懸命に働きづめに働いて、六十歳になるかならぬかうちに疲れ果てて「お迎え」がくるというような、生まれてから死ぬまでが、一山超える軌跡をとったものだが、現代は平均寿命が長くなったので、八十歳くらいまで生きることになる。(中略)これからの人生は、一山型のカーブではなく、双子型の山の軌跡をたどることになる。1回目の山を超え、2回目の山にとりかかろうとするあたりが中年に当たると考えられる。(文庫のp10)

中年って、いったい何歳からのことなんでしょ。
wiki を見てみたら、45〜64歳あたりをいうらしい。
もろに真っ只中だ(笑)。

個人的には、河合隼雄さんがいうところの1回目の山が大変で、
若いころに戻りたいとは全然思わない。
ええ、お肌はすべすべだったし、へんな脂肪も付いてなかったし、
重力が見た目にどんな影響を与えるかなんて考えもしなかったですけどね。

当時の自分の耳元で何かを囁けるのなら
「もっとリラックスして、いろいろ楽しんでね」といいたいもん。
事務椅子の上に正座して、うんぬんいいながら
原稿を書いていた自分が思い浮かぶ。お疲れさん。頑張りすぎるなよん。

今いるはずの2回目の山は
「なんかジンセー楽になったかも」と感じ始めたころだったりするなあ。
ものを忘れることと、人生の楽さ加減は、
案外関連しているのかも。
これを開き直り、というのでしょうか。

買い直したつもりはない


地味に本の減量続けてます。文庫本を読んで気に入って単行本を買い直すことはあるけど、この本は読んでないのに2冊ある。どっちを先に買ったのかも思い出せんよ(*´꒳`*)

週末のお題だった段ボール5つ分の本をなんとか開封し、
開けたのはいいけれど「中の本をいったいどこに置くんだい?」。
困りました。

腕組みしながら山を眺めていても詮ないので、処分するつもりでいた本棚を復活させることに。
えんやこら棚を運んで元あった場所に配置し(粗大ゴミにするつもりだったので部屋の外に出していた)、
約8割の本を詰め込みましたが、まだ溢れてる…。
ほかの本棚の隙間を見つけては、ちまちま詰め込むことを繰り返し、
それでも入りきらなかった分をばさりと本棚の前に積み上げ、
本日のミッション完了ということにしました。はあ。

なんとか移動し終えたというか、
まあ、無理やりではあるけれど詰め込むことができたので、
これからは中身をチェックしながらの減量だ。
さらにじみ〜な作業が続きそうですよ。
いつになったら終わるんだろうね。


今日の発見は竹西寛子著『詞華断章』が2冊あったこと。
この本は未読なので、
手元に置くために文庫本を単行本に買い直した(あるいはその逆)、というわけではないみたい。
ほとんど人ごとのようにいっていますが、
2冊あることはもちろん、どちらの本を先に買ったのか等々、見事に記憶にない。

単行本はパラフィンのカバーがかけられているので、
個人商店系の古本屋さんで手に入れたんでしょう。
文庫はブックオフかな。100円のシールが付いてました。

竹西寛子には、端正な文章を書く大人の女の人というイメージがあるな。
子どものころ、母が取っていた婦人雑誌の連載で知った名前かもしれない。
ぼんやり読んでは申し訳ないから、
頭がクリアな時に少しずつ読みたいな、なんて思わせられる作家。

未だに読んでないのは、
すっきり頭が冴えてる時がわずかばかりしかなかった、ということでしょうかね。
なんてこったい(笑)。

文庫のカバーにあしらわれた桜の絵は、今井俊満
単行本は桜じゃなく、梅でしょう。石踊達哉作。
装丁(文庫はデザインとしてクレジットされてるなり)はともに、中島かほる。

写真を撮るために単行本のカバーを外して初めて知ったけど、
カバーの絵とクロス張りに使われているくすんだ黄色の対比がなんと美しいことか。
目次だけを見ても、
書体、文字の大きさ、レイアウトがぴしりと決まっている。
美しい本だったのね。文庫の方をバイバイの箱に入れることにします。



減りそうで減らない本の山


この2冊、似てませんかのう。『ばななブレイク』は00年、『求めない』は07年。デザインはともに鈴木成一デザイン室

ここ2、3年、地味に続けているのが本の減量。
本棚に本が入りきらなくなったのは、ずいぶん前だな。
「いつだったんだろ」としばし考えてみたけど、全く思い出せません。

これではいけないと本屋さんに出かけるのを控え(まじに)、
密林での買い物は、欲しい物リストの本をまとめてカートに入れないように心がけ、
半年に1回はダンボール2〜3箱分をネットの古本屋さんに送っているんだが、
ぜんぜん減った感じがしない。

去年、ひょんなことから同じ建物内で引越しをすることになり、
分類もへったくれもなく、
手当たり次第に詰め込んだ本が、もう1年近く経つのにダンボールに入ったまま。
さっき数えてみたら、たぶん5箱以上あるわ。
この週末、開けるだけでもやってみようと思います。

で、その前哨戦(?)としてベッド周りに積んだ山を崩していたら、
画像の本が目についた。
「この2冊のデザインって似すぎていませんか」
と感じ、ブログに書こうと思ってよけておいたような記憶が。

手のひらに収まりそうな小さな判型を含めて、07年の『求めない』(ベストセラーだったはず)は、
00年に発行された『ばななブレイク』と似ている。
「こんな感じで〜」という注文を、まんま作ったのではないかと勘ぐりたくなるよ。
ムードが似ていること自体は悪いことじゃないと思うけど、
本歌を超える何かが見えないとね。前のデザインを踏襲するだけじゃ、つまらない。
同一事務所の仕事だから問題ないのか。

+++

それにしても放置しすぎだったです、ブログ。
管理画面の仕様が変わってなくて良かった(笑)。

「ちょっと書いておきたい」みたいなことが積み重なって、
整理できる本を整理できずに保留扱いしてたりする可能性はないかな(と自分に聞いてみる)。
片付けながら、以前思いついた小ネタが蘇ったら、
たまには書こうなんて、ふと思ったです。

プレイリスト「**Gloaming ( Sanma & Beer ) / Sep 16」

先だってFBのTLに流れてきて、友だち数人が「すごい!」とコメントしていた「願い事を叶える不思議なリスト」。見に行ってみたら、かな遣いがヘンだし、微妙にスピ系みたいだし、他の人にシェアを勧めていてチェーン系のようだし、まあ、かなり胡散臭い。

でも、好奇心に負けてやってみました(笑)。するとわたしの心の中を表す歌は「Nothing Will Be As It Was ( Nada Sera Como Antes ) 」で、人生を表す歌が「 Venceremos (We Will Win) 」なんですと。

Nothing Will Be As It Was って、直訳的には「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」みたいな感じですか。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」でもいいか。渋いなあ。渋すぎるよ。達観した老人のつぶやきのようだ。

人生を表す方は「Venceremos 」(We Will Win というタイトルでワーキングウィークが85年に発表。レーベルはチェリーレッド)なので、一転して武闘派?? 力が入っているのか抜けているのか、よく分からない結果となりました。

今日のプレイリストは、「願い事を叶える不思議な…」を書いたときに思いついた4曲を、しつこく何度も使ったものです。よかったら秋刀魚とビールのお供なんかにどうぞ(暑いよ、夏だ〜とふうふう言ってたのに、あっさり9月になっちゃった)。

n_dharmaの「**Gloaming ( Sanma & Beer ) / Sep 16」を #AppleMusic で聴こう。

プレイリスト「**Downpour / Aug 16」

先だって「For You 」のオススメに、「心地よい低音にマッサージされて、メローなグルーブでリラックスするのはいかが?」と書かれたプレイリスト「ソニック・マッサージ」が現れた。

「へ〜っ!?」と思って聴いてみたら、かなり好みとかぶる気が(たとえばM5・10・11)。贅沢をいえば、もうちょっと音が重くて、歌ものの比率が低い方がいいな。


歌ものはどうしても言葉に引っ張られるので、インストの方がぼんやりできる。ただし、英語はたまに言葉が聞こえてくる程度なので、日本語の歌より気にならない。フランス語に至ってはほとんど音楽というか、言語じゃないというか。それ以外は推して知るべし(笑)。


低音という切り口は悪くないな、と思いました。で、ですよ、低い音っていわゆる癒し効果があるの? まあ、神経に障る音を考えて最初に思いついたのが、チョークを持つ爪先が黒板をかすった時の音とか、発泡スチロールがきしむ音とか。

想像しただけでも嫌な感じがする。低い音が不快だったのは、ハコ鳴り(躯体が共鳴)してた小さなクラブくらいだなあ。高低ともに行き過ぎれば良くないだろうけど、高いほうが不快感に与することが多いということなのか。

「癒し、低音」で検索してみたら、ニコニコ動画なんかで「低音に癒されたと思ったときに貼り付けるタグ、#癒しの低音」っていう解説が出てきた。なるほど〜。低い音が強調された音楽が好きな人、案外多いのかもね。

今日のプレイリストは、低音がよく出る機器でお聴きになるとよろしいかと。PCの脇に置いてる小さなスピーカーはしょぼしょぼで、あいぽん付属のイヤフォンが優秀だったわ〜。「**Downpour / Aug 16」、約90分です。